聖ヨセフ・フライナーデメッツをたたえるノベナ

宣教に関する聖歌

先:父と子と聖霊のみ名によって。

答:アーメン。

導入の祈り

先:主イエス、贖い主である神、御父の永遠のみことば、あなたがわたしたちを祝福するために本当にここにおられると信じます。まったき愛と信仰のうちに、あなたの至聖なる現存をたたえ、あがめます。

答:聖ヨセフ・フライナーデメッツとの一致のうちに、あなたをたたえ、あがめます。生涯、あなたの地上での宣教を果たすために聖ヨセフは遣わされました。愛に満ちたイエス、聖なるみ旨に従って生き、わたしたちの人生の目的が、あなたの誉れ、栄光になりますように。

先:主イエス、あなたの掟とのまったき一致のうちに、地上の出の生活において聖ヨセフが示したような同じ宣教への愛と信心を示すことを熱望します。

答:神よ、あなたは中国宣教と中国の人々を、忠実なしもべ聖ヨセフ・フライナーデメッツの愛に満ちた見守りにゆだねられました。あなたのしもべであるわたしたちに、生涯の間、永遠の幸福と平和に至るために、聖ヨセフの徳を模倣し、信仰心に満ちた生活の義務を果たす同じ恵みをお与えください。聖ヨセフと共に、主イエスの恵みと祝福を祈ります。アーメン。

みことば:マタイ28章16-20節

聖ヨセフ・フライナーデメッツの取り次ぎを求めて

先:神言会の中国宣教の父聖ヨセフ、あなたへの愛と感謝をささげます。

答:中国の人があなたを思い、永遠にあなたを大切にする愛をもって、心を一つにしてあなたに愛情と信心を向けます。

先:親愛なる聖ヨセフ、わたしたちの守護者、神への取り次ぎ手となってください。あなたの取り次ぎによって、わたしたちの罪すべてをおゆるしください。心の清さ、必要な徳、愛に満ちた信仰、たしかな希望、まったき愛を得られるように取り次いでください。

答:心身のあらゆる必要において、特に責任と義務を果たす時にわたしたちと共にいてください。あなたの生き方の模範にならうため、聖霊をわたしたちに注いでください。

先:栄光に満ちた聖ヨセフ、あなたは教会の力強い道具でした。教会の宣教活動、教皇フランシスコ、善司教団、司祭団、修道者を天から助けでお守り下さい。御国を広げる教会の活動すべてに共にいてください。

答:アーメン。

取次の祈り

先:イエス、あなたは世に来るすべての人を照らす正義の光です。贖い主の光が、世における不運な人々の闇と無知を取り除いてくださいますように。真理の従者を派遣し、すべての人に光を注いでください。

答:主よ、聖ヨセフの取次ぎによって祈ります。

先:あなたの宣教師を送り、そのはたらきを祝福と恵みで満たし、あなたのもとからのみ成功と永続的な実りがもたらされますように。その体と魂を守り、終わりの時には永遠の褒賞と栄冠をお与えください。

答:主よ、聖ヨセフの取次ぎによって祈ります。

先:すべての人の救い主である神の子イエス・キリスト、あなたは宣教の熱意の模範であり源です。あなたの愛のみ国を広げつつ、中国での宣教活動をはぐくんでください。

答:主よ、聖ヨセフの取次ぎによって祈ります。

先:聖ヨセフ、御国への奉仕に青年たちを召し出してください。自己犠牲と義務への忠誠の純粋な精神を選ばれた人々の心に注いでください。

答:主よ、聖ヨセフの取次ぎによって祈ります。

先:アーノルド一家(いっか)のわたしたちすべてが、あなたの栄光と勝利のために働き、御国と全ての人の救いが広まりますように。

答:主よ、聖ヨセフの取次ぎによって祈ります。

先:宣教のためのあらゆるはたらき、犠牲、祈りにおいて、救い主の愛に満ちた心がわたしたちの心の中、すべての人の心の中で生き、その心を治めてくださいますように。

答:アーメン。

先:(沈黙のうちに個人的な意向をささげます)

  祈りましょう。

答:主よ、あなたのしもべヨセフの取り次ぎによって受けたすべての恵みと喜びに感謝します。その現存の祝福が、わたしたちの召し出しの義務と働きの間ずっとわたしたちの間に続きますように。わたしたちを祝福し、わたしたちの理解を照らし、わたしたちの意志を力づけ、心に平和を、愛に純粋さをお与えください。わたしたちの歩みをあなたの小道に導き、わたしたちの手をあなたへの奉仕のうちに力づけ、わたしたちの舌を聖化し、わたしたちの目をあらゆる悪からお守りください。聖ヨセフと共に、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

どこであなたを探したらいいのでしょうか

主よ、どこであなたを探したらいいでしょうか

岩の上の家のように建てられた

 誠実な友情のうちに

困難な自由の道のうちに

家族の中で分かち合われる愛の歓びのうちに

学びのうちに

達成した仕事のうちに

そこであなたを探します、主よ!

.

わたしを傷つけた人へのゆるしのうちに

この感情を傷つけた人に再び向ける言葉のうちに

なかなか実現しづらい真理と誠実さのうちに

家族や社会の状況を

 より良いものにしようとするささげのうちに

そこであなたを探します、主よ!

.

疎外されていると感じている人との

 出会いのうちに

孤独や病気、貧しさで

 苦しむ人のそばにいることのうちに

いのちと聖体祭儀を祝う共同体のうちに

祈りのうちに、

 そしてあなたのみ言葉のうちに

あなたに出会います、主よ!

.

あなたは

心というそれぞれの神殿の中で

毎日の生活の中で

 出会わせてくださる方だから

神さま探し

 真夜中に一人の男が言いました。

「ついに我が家を後にし、神を探しに出る時が来た、俺をこんなにも長いことだましていたのは誰だ。」

 神は静かに彼に答えました。

「わたしは、いるよ。」

 けれど男には一切聞こえませんでした。

 彼の妻は、母として子どもをその胸に抱きながら、ベッドで男の横で、優しく眠っていました。男は、彼らを見ながら言いました。

「こんなにも長いこと俺をだましていたお前たちは、いったい何者なんだ。」

 神の声が再び語りかけました。

「彼らこそ神なのだよ。」

 けれど、彼には何も聞こえませんでした。

 子どもと母親は、引き続き眠っていました。

 神は言いました。

「愚か者、待て。家庭を置いていくな。」

 けれど男には、何も聞こえませんでした。

 すると神は、悲しくため息をつきました。

「なぜわたしを見捨てながら、わたしのもとに来たいなどというのか。」

  ラビンドラナ―ト・タゴール(二十世紀前半インドの詩人、思想家)

家族

 ヨハネ・パウロ二世はメキシコで「家族は神の心のうちにある」と言いました。またスペインではキリスト者の家族に向けて次のように言いました。「家族は、すべての人がその人自身であるということ、その人のありのまま、またその人が備え持っているものをもって愛される唯一の人間的共同体です。婚姻による共同体の基盤となる掟は、その特有の便利さや独自の快楽にあるのではありません。他者がそのままで自分を愛し、また愛されることにあります。基盤となる掟はすなわち、人であることにまつわる掟です。つまり、すべての人が…ありのままに愛されることに存在する尊厳において認められる、という掟なのです。」

 神は男と女という姿を、自分自身の最も完全な像として創造しました。「(人を)神は御自分の似姿に造られた、男と女に造られた」(創世記1章27節)。それはご自分の作品の中で最高のものでした。「それを見ると、きわめてよかった」(創世記1章31節)。だから結婚は幸福と聖性の道、神の心に直結する道であり、そこでわたしたちは似姿として造られているのですが、その神から、愛、家族、共同体というものが生じるからです。 家族は、人の交わり、父と子と聖霊の交わりの姿を反映するものです。キリスト者の家族はまた教会の交わりの本当の姿でもあります。だからこそ、それは〈家庭内教会〉と呼ばれ、信仰と希望、愛の、本物の共同体になるのです。わたしたちは、家族を愛せば愛するほど、家族を形作れば作るほど、より神の近くにいるのです。

家族の霊性

 アーノルドの両親は、とても宗教的な人であっただけでなく、深い霊性を兼ね備えた人でもあった。のちにアーノルドは次のように書いている。「わたしの父は、気取らない簡素な人でした。家族のことを心配する父親であり、またよいキリスト者でした。土曜日には午前中に二回ミサに参列し、午後は聖櫃の前での祈りに向かったものでした。聖霊の庇護を求めるため、毎週月曜日ミサに行けるように努めていました…」。この聖霊への信心はヤンセン家の霊性を特徴づけた。聖霊は、家族とその各メンバーの導き主であり慰め主、力と着想のもとであった。だからこそアーノルドは、常に聖霊の導きのもとに生き、その愛の火に魅了されるがままにしたのである。そこから境界なき宣教使命の衝動が訪れたのである。

 毎日、家族でロザリオの祈りを唱え、またアーノルドの兄弟の一人が語ったように、彼らの父は、冬の長い夜には家族に「私には容易に説明できない熱意、熱心さをもって宣教師たちの手紙を」読み聞かせたものだった。さらに、アーノルドの人生に大いなる着想を与えることになったのは、ヨハネによる福音書の序章である。彼の両親はたゆまずこれを祈りとして唱えたのである。

「はじめにみ(ことば)があった。…そしてみ言は肉となり、我らのうちに住まわれた」。

引き出す(教育する)

教育するとは

小舟にモーターをつけるのと同じだ

長さを測り、重さを量り

 バランスを取らなければならない

そうやってすべてが機能するのだ

しかしそのためには

魂に、船乗りを少々

海賊を少々、詩人を少々

そして一キロ半の集中した

 忍耐を加えなければならない

それでも働く間、夢を見ることは慰めだ

それは小舟、その子どもは

水の上を走ってずいぶん遠くまで行くのだ

その船旅が言葉という我らの荷を

遠く離れた港に

 遠い島々に運ぶだろうとの思いに

ふけりつつ

.

いつの日か

わたしたち自身の小舟が

 眠りにつく時

彼らが新しい小舟に乗り

それでもわたしたちの旗は

 掲げられたままであることを

  夢見つつ

ガブリエル・セラヤ(二十世紀後半、スペインの詩人)

着想を与える家族

 あるところに有名な画家がいました。彼はある日、自分のキャンパスに絵を描くための着想を探しに旅に出ました。家族生活では満たされず、つまらなくなったのです。というわけで画家は、妻と子どもたちをおいて、着想を探しに世界を回ることにしました。

 めぐり歩いているうちに、結婚式を迎えていた花嫁に出会いました。「ちょっとお願いです、教えてください。あなたにとって一番美しいものは何ですか」、彼女は迷わず「愛です」と応えました。そうして芸術家は「どうすれば愛を描けるんだろう」と物思いにふけりながら旅を続けました。

 そのあと、戦争から帰ってきた兵士に出会いました。彼にとって世界で一番美しいものは何かを尋ねると、兵士は疑いなく「平和です」と答えました。「でもどうやって平和を描けばいいんだろう」と不安げに芸術家は自問しました。

 そうして更に前に進み続けると、神殿で一人の信者に出会いました。彼にも同じ質問をすると、信者は「世界で一番美しいものは信仰です」と答えました。「どうすれば信仰をキャンパスに描き出せるのだろうか」と、芸術家は自問を続けました。これほどまでの着想探索の末、疲れと、ほぼ落胆に近いものを感じながら、画家は自分の家に帰ることにしました。

 家に近づくと、妻があふれんばかりの愛情と優しさで彼を迎えました。その瞬間、芸術家はあの花嫁が話していた愛を見、ここで愛に出会いました。家の中いっぱいに穏やかさと安心とが漂っていました。それはあの兵士が話していた平和でした。そして息子たちが彼に抱きつきキスをしてきたとき、子どもたちの目の中に彼は見たのです、あの信者が話していた信仰を。家の外で骨を折りながら探していた着想に、自分の家庭で出会ったのです。

 本当の着想は、家族にあったのです。

家庭での共同生活

 歴史の流れと共に、模範的な家族像を含め、家族の状況は変わってきました。けれど家族と呼ばれる構造は常に存在してきたし、これからもいつまでも存在し続けるでしょう。というのは、家族には人間的実現のために欠かすことのできない働きがあるからです。これは自然にかなった構造であり、社会の軸でもあります。意志交流の深い関わりが人を人らしくする助けとなるのです。詩人カンポ・アモールは家族の仕組みと家族内にある躍動的な力を次のように描写しています。

「家庭とは家を建てるのに使う石や煉瓦ではなく、

  魂だ。

 その家具は金ではなく、愛情でできている。

 愛し合っているならば、

  貧しい人もどれほど豊かだろう。

 愛し合わなければ、

  金持ちもどれほど乏しいことだろう。

 愛が家庭を発明したのだ。

 人がもし愛し合うならば、

 水はどれほどさわやかになり、

 パンはどれほど熟成された味わいを醸すだろう。

 食卓の上には、愛情を込めて置かれる花のほかには

 花は必要ないのだ。」

 家族について語るには聖パウロがコロサイ人への手紙(三章十二節~二十一節)で列挙している、共同生活における、人としてふさわしい徳を忘れることができません。腹の底から出るあわれみ、善さ、へりくだり、甘美な優しさ、理解、赦し、そして何よりも、愛。

2.家族

 アーノルドは、1837年11月5日に、ドイツのゴッホで生まれた。両親の名は、ゲルハルト・ヤンセンとアナ・カタリナ・ヴェッレーゼンである。アーノルドは11人兄弟の第2子であった。彼らは、禁欲的で比較的貧しい日々を送る、非常によく一致した家族を成していた。小さな農場があって、そこにはわずかな土地があり、数頭の動物、特に彼の父親が運送のために用いていた二頭の馬と馬車がいた。非常に幼いうちから、子どもたちは日々の営みに協力しなければならなかった。愚痴もこぼさず、無欲と協力の気質でこれを行っていた。家庭生活は、頻繁な祈りと教会への忠誠によって培われた深い信仰によって特徴づけられ、また支えられていた。

 父親も母親も、熱心なカトリック信者だった。アーノルドは後に、次のようなことを書いている。「わたしの父は気取らない簡素な人でした。善悪の見極め方を知っており、わたしたちは、言われたことをきっちりとすべて守らなければなりませんでした」。また母親については、簡潔に次のように書いている。「彼女は祈りが大好きな人でした」。家族のおかげで幼いアーノルドは、義務と従順に存する大いなる意義をもって生活することを学んだ。彼は人生を連帯へと方向づけ、生きた揺るぎない信仰を伸ばした。このように、家族の中で司祭また宣教師の召し出しが生じたのである。

仕える

植える木があるなら、植えなさい、あなたが

直すべき過ちがあるなら、直しなさい、あなたが

皆が避けたがる、受け入れるには努力の必要な

 挑戦があるなら、受けて立ちなさい、あなたが

道から石をどかし

心から憎しみを取り除き

問題のある事柄から

 困難を遠ざける人になりなさい

そこには健康的で正しくあることの喜びが

 見出されることもさることながら

何よりも、仕える喜びがあるのです

.

世界がもしすでに出来上がってしまっている

 ものだったなら、どんなに悲しいことでしょう

もし何かを植えることのできる畑や

取りかかることのできる事業も何もないのなら

.

目立つ仕事だけに目を留めるような過ちに

陥らないようにしなさい

小さな奉仕がいくつもあります

 食卓を整えること

 本をきれいに並べること

 女の子の髪をすくこと

.

仕えるとは

 より劣った生き物の雑用ではありません

実りであり光である神さまが仕えるのです

そして神さまはあなたに毎日尋ねます

「今日、仕えましたか?」と

ガブリエラ・ミストラル(二十世紀前半 チリの女流詩人、教育者、外交官)